戦争というのは軍人と軍人の戦いのはずだ

※この記事は全国の書店で発売中の「国会議員に読ませたい敗戦秘話」産経新聞出版)から抜粋しました。ネットでの購入はこちらへ
原爆は戦争ではない。虐殺だ。


「長崎に猛烈な爆弾が落とされて病院はすべてダメになった。収容できない被害者を貨車で送るから大村海軍病院に運んでほしい」
 本田は手の空いている隊員20人を率いて海軍病院に向かった。
 海軍病院前にはすでに貨車が到着していた。扉を開けると数十人が横たわっていた。だが、体は真っ黒で髪もなく、服も着ていない。男女の区別どころか、顔の輪郭も分からない。息をしているかどうかも分からない。
 「とにかく病院に運ぼう」
 そう思い、担架に乗せようと1人の両腕を持ち上げるとズルッと肉が骨から抜け落ちた。
 甲種飛行予科練習生(予科練)を経て海軍に入った本田は41年の日米開戦以来、インドネシア、トラック諸島、ラバウルなど各地で零式艦上戦闘機零戦)の操縦桿を握り続けた。ガダルカナル島攻防では、盲腸の手術直後に出撃し、腹からはみ出した腸を押さえながら空戦したこともある。本土防衛の精鋭として剣部隊に配属後も、空が真っ黒になるほどのB29の大編隊を迎え撃ち、何機も撃墜した。この間に何人もの戦友を失った。
 そんな百戦錬磨の本田も原爆の惨状に腰を抜かした。
 「地獄とはこういうものか…」
 剣部隊司令で海軍大佐の源田実(後の航空幕僚長参院議員)は本田にこう語った。
「もし今度、新型爆弾に対する情報が入ったら俺が体当たりしてでも阻止する。その時は一緒に出撃してくれるか」

本田は「喜んで出撃します」と返答したが、その機会は訪れることなく8月15日に終戦を迎えた。
 戦後、本田は航空自衛隊三菱重工に勤め、テストパイロットとして操縦桿を握り続けた。90歳を越えた今も広島、長崎の悲劇を忘れることはない。そして原爆搭載機に向かって出撃できなかった無念もなお晴れることはない。
 「長崎の人たちには本当に申し訳ないと思っています。本土防衛の役目を担った私たちがあんなに近くにいたにもかかわらず…」
 本田は涙をにじませ、こう続けた。
 「戦争というのは軍人と軍人の戦いのはずだ。だから原爆は戦争じゃない。非戦闘員の真上で爆発させるんですから。虐殺ですよ」

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やっと、遺族となる遺国が声をあげられるようになったんだ・・(涙)

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日本は、仕返しなんてしない。

亡くなった方を悲しみ、虐殺した人を哀れむんだよ。

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そういう国が、丸腰。
虐殺側が、核兵器保有

そりゃ、世界も地獄になるわ。

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頑張れ、日本