これぞ日教組カラー【深川小学校日々のできごと】より

【深川小学校日々のできごと】
2010年12月04日
学芸会2010桃次郎の冒険(4年)

「昔話・桃太郎」の紙芝居が始まろうとしているそのとき、桃山次郎と名乗る少年が現れました。
「桃太郎なんて、強くて、親孝行で、おてがらたてて、いい子ちゃんの見本みたいで気持ち悪いよ。」
「それじゃ、君が桃次郎になって、君の思う「桃太郎」をやってみるのさ」
そういうわけで、桃次郎の冒険の始まり、始まり~。

とあるさびしい山の中、ご存じ、イヌ、サル、キジが、お腹をすかせながら、桃太郎との過去の栄光にひたっていました。
そこへ、きび団子のいいにおいをただよわせながら、桃次郎がやってきました。

最初のうちは、桃次郎に会えたことに、感動したふりをしていた三匹も、きび団子をもらうと、態度がひょうへん。
三匹に、刀を取られ、きたえ方が足りないだの、オニはみにくい、いやしい、しつこい、オニを見たことがなくてたたかえるのかなどと、さんざん言われ、とうとう泣き出す桃次郎。
それでも、桃次郎には、鬼が島に行かなければならない理由がありました。

最初に訪れた桃太郎の家。
おじいさんやおばあさん、村人たちが望むのは、桃次郎が宝の山を持ち帰ることだけだったのです。

おじいさん、おばあさん、村人たちの期待を一身に背負い、加勢してくれるはずだったイヌ、キジ、サルに見送られ、桃次郎は、一人鬼が島に向かいました。

桃次郎が鬼が島で見たものは、桃太郎に退治されて石じぞうになってしまった鬼の子供たちと、桃太郎にあらされた村でした。
オニの木の実を食べ、頭にツノがはえてオニになってしまった桃次郎。
親切なオニの子のスモモたちと、一緒に過ごしているうちに気付きました。

「オニにはツノがある人間にはツノがない。ただそれだけじゃないか。オニと人間とは同じなんだ。本当はそうなんだ。昔からそうなんだ。」

桃次郎は、オニの村人たちと平和に暮らしていました。
そこへ、突然、桃次郎の弟、桃三郎がやってきました。オニ退治にきた桃三郎とそれをやめさせようとする桃次郎。もみ合っているうちに、桃三郎のピストルが火を吹いて、スモモが倒れます。スモモが残した言葉は、
「みんな、けんかはやめよう。仲良くしよう。」

桃次郎が鬼が島から持ち帰ってきたのは、宝の山ではなく、ひとつの歌でした。いつかは使い果たしてしまう金銀財宝ではなく、胸の奥深くいつまでもわすれることのない歌、スモモがよく歌っていた歌でした。
ピアノの演奏とともにフィナーレです。

スモモもモモも桃もうちスモモもモモも仲間だよ
風がザワザワ吹いたらばスモモもモモもうまくなる
スモモもモモも桃のうちアンズもモモも仲間だよ
風がザワザワ吹いたらばサクランボもモモも手をつなぐ

スモモもモモも桃のうち君らも僕らも仲間だよ
風がザワザワ吹いたらば君も僕らも手をつなぐ
一人ひとりは弱いけど一緒に歌えば風に負けない
========

これを学芸会の芝居仕立てて、小学校4年生、10歳の児童たちに教え込んでいるわけです。

桃太郎の物語の変形バージョンと言ってしまえばそれまでですが、その桃太郎を、ただの人殺しの犯罪者に仕立てているわけです。

そもそも桃太郎の物語は、勧善懲悪の物語です。
悪を懲らしめ、善を勧める。
正義と勇気を子供たちに教えるとともに、桃太郎が鬼退治をする際にも、鬼の親分が「まいったぁ。こうさんだ、助けてくれぇ」と、手をついて謝ることで、鬼の命は助けています。
またそもそも鬼たちが持っていた財宝というのは、それまで村人たちを襲った収奪物であり、桃太郎はそれを取り返して来ているわけです。
そのどこが、どういけないのか、何故、わざわざ桃次郎などを登場させて、桃太郎を非難しなければならないのか理解に苦しみます。

桃太郎の物語について、福沢諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」の中で、子供たちに次のように解説しています。
「桃太郎が鬼が島に行った理由が、宝を取りに行ったのだとするならば、これは怪しからぬことです。宝は鬼の大事な所有物であり、宝の持ち主は鬼たちだからです。
所有者のある宝を、理由もなく取りに行ったとするならば、桃太郎は盗人です。悪者です。
その鬼が、悪者で、世の中に妨げを起こす者たちならば、桃太郎の勇気によってこれを懲らしめるのは、良いことです。
けれど、その行為を、宝物を奪って家に帰り、お爺さんとお婆さんに、ただあげたとするならば、それは欲のために行ったものであって、それでは卑劣千万になってしまいます。」

ここで福沢諭吉が言っているのは、
1 ただ桃太郎が、鬼たちから財物を奪ったのなら、桃太郎の方が悪人である。
2 その財物を、祖父母にただあげたとするならば、それは卑劣な行為である。
3 鬼たちが悪者で、世の中に妨げを起こす者たちならば、桃太郎の行動は良い行動である。
ということです。

基本的に、桃太郎の物語を勧善懲悪の物語であると踏まえた上で、大切なことは、鬼退治したり、宝物を奪ったりということではなくて、あくまでも、悪人たちを懲らしめるという点であること。
鬼たちから取り返して来た村人たちの財物は、それぞれのもとにちゃんと返し、その上で残ったものや、むr人たち、つまり本来の所有者たちから謝礼として受け取ったものを、桃太郎と祖父母は受け取るべきであることなどを、福沢諭吉は子供たちへの教えとしているわけです。

昔話は、そのように素直に解釈し、学び覚えれば良いのであって、わざわざそこに桃次郎や桃三郎を登場させたり、それらを争わせたり、あるいは桃太郎の部下であったイヌ、サル、キジなどを貶めたりする理由は、どこにもありません。

そもそも桃は、イザナキノミコトが、黄泉の国へ亡き妻を尋ねた際に、魔物に追われ、黄泉の比良坂のあたりで、その魔物をやっつけるために、桃の実を投げたという説話に登場しています。
このときの功績から、桃は意富加牟豆美命(おほかむづみのみこと)いう名を、神から頂戴しています。

そうした神話が母体となって、悪事を祓う魔除けの使命を持って産まれたことが、桃から産まれたという物語に結びついているわけで、一方において、村人たちの暮らしをおびやかし、大きなトゲの付いた鉄棒を持って集団暴行を働いたり、財物を盗んだり、あるいは村の女性たちを拉致したりする者たち、つまり鬼を退治しているわけです。

もし、鬼たちの暴行を容認し、鬼たちの暴行を誰も阻止しようとしなかったならば、むしろこの世は鬼たちの住みかになってしまいます。
悪いものに対しては、敢然と立ち上がるという強い精神こそが悪だというのなら、この世は地獄です。

そういうことを、桃太郎伝説は、わたしたちに教えてくれているわけで、それを、悪い鬼たちを懲らしめたことが悪だというのは、そこに、かなり意図的な悪意を感じざるを得ません。
私は、このようなことを、教育の名を語って行う教師は、もはや教師の名に値せず、即座に放逐すべきです。

[ねずさんのひとりごと]
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2180.html
-------------------------------------------------------------------------

こんなおかしなことが行われているんだ。

「秘密保護法」に対して、戦前のようで怖いと言った著名人。
言論の自由」を叫ぶ新聞社。

慰安婦の証言は、「公開しろ」「秘密にするな」とは、誰も言わない。


そして、このおかしな桃太郎をすることにも声を上げない。
日本人に「愛国心」を持つ者を育ててはいけない。
国連が規定する「敵国」のままいてもらわなくては、世界が困る。
日本さえ、我慢すれば、丸くおさまる・・
と思っていたら。


ところがどっこい

世界中で戦争が起きている。

そして

中国が日本領海を犯し、
北朝鮮は、誘拐し、
韓国は、歴史を捏造し、日本海の名前も変えるし、仏像を盗むし、天皇を侮辱し・


きっと、何かを産む時の痛み・・だと思いたい。


頑張るぞ!日本!