関東大震災の記憶

関東大震災は、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に関東地方で発生したマグニチュード7.9の巨大地震です。

地震震源地は、相模湾北西沖80kmで、千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲で、日本災害史上最大の被害を発生させました。

被害の概況は次の通りです。
 死者・行方不明者 14万2800人
 負傷者      10万3733人
 避難人数     190万人以上
 住家全壊     12万8266戸
 住家半壊     12万6233戸
 住家焼失     44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
 その他      868戸

津波を伴った東日本大震災でさえ、死者・行方不明者数は死者・行方不明者数は18,456人です。
それが関東で起きたから被害が14万名余にも広がったのでしょうか。
実は関東では過去にも大きな地震が起きています。
 元禄地震  死者     約1万名
 天明地震  死者       少数
 安政地震  死者    7,444名
 
関東大震災は、当時の家屋が木造であったために火災が広がったためとも言われますが、元禄、天明安政の頃だって、江戸の家屋は木造です。
人口が違うという人もいるかもしれません。
江戸時代の江戸の人口は、諸説ありますが、おおむね200万人から250万人であったといわれています。
手元に大正9年の東京市の人口の資料があるのですが、それよると、当時の東京市の人口は、217万3,201人です。

実は、江戸も東京も、人口は大差ないのです。
そして実は、関東大震災においても、震災そのもの、あるいは震災時の建物倒壊や火災よって亡くなったり行方不明になった人は、やはり、1万名程度とされているのです。

つまり、14万人の死者・行方不明者のうち、なんと13万人が、震災そのものではなく、別な理由でお亡くなりになっているのです。
では、その理由とは何でしょう。


一般には、地震の発生時刻がお昼どきの炊事の時間帯であったことから、合計136件に及ぶ複数の火災が同時発生し、これに折から能登半島付近にいた台風の余波による大風が重なって被害を拡大させたと説明されています。
逆にいえば、わずか136件なのです。
その数は正確に把握されているし、この136件のボヤや、震災後すぐ、消し止められています。

にもかかわらず、火は火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の午前10時頃です。
被災した市内の気温は、この間、ずっと40度を超えるものとなりました。
火が消されたのに火災が広がったのです。
それが鎮火したのは二日後です。
いったい何が起きたのでしょうか。


最初の地震では、東京市内の建造物の被害として、たとえば凌雲閣(浅草十二階)が大破。
建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊して作業員300余名が一瞬で圧死するなどの被害が発生しています。
震源に近い横浜では、官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどが、石造・煉瓦作りの洋館であった事から一瞬にして倒壊して、ここでも多くの死者を出しました。

一般の家屋でも、倒壊や倒壊の危険から、多くの人は日頃の訓練に従って、指定避難所に退避していました。
そこは土地が広てく、安全な場所だったからです。
安全だから指定避難場所になっていたのです。
ところがその避難場所が、地震の「翌日」になって火災のために丸焼けにされています。

たとえば、東京の本所区横網町(現在の墨田区内)にあった本所区被服廠は、2万430坪もある広大な敷地内に4万人近い人が避難していました。
ところがその避難所を火炎柱が襲い、ここだけで3万8千人も亡くなっています。

集まっていたのは、もちろん地震による家屋倒壊等によって避難を余儀なくされた人達です。
安全だから、被服廠にいたのです。
そこを震災後まもなく消し止め終わっていたはずの火災が襲ったのです。

それだけではありません。
なんと爆弾を使った建物破壊や放火までありました。

いったい誰がそんな不埒なことをしたのでしょうか。
当時の新聞の見出しを見てみます。

朝鮮人、隊をなして石油・爆弾使い放火」
 (小樽新聞 大正12年9月3日号外第一)
朝鮮人、各所暴動検束数千名」
 (小樽新聞 大正12年9月3日号外第三)
朝鮮人、横浜~王子放火」
 (大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外)
朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」
 (荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報)
朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」
 (新愛知 大正12年9月4日号外)
朝鮮人浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」
 (名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二)
朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」
 (福岡日日新聞 大正12年9月4日号外)
朝鮮人、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」
 (小樽新聞 大正12年9月4日号外第一)
朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。
 軍隊が治安維持に出動したため、
 不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」
 (九州日報 大正12年9月4日号外第三)
朝鮮人暴挙は完全取締を遂行」
 (大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二)

関東の地震なのに、報道は地方のものばかりとなっていますが、これには理由があります。
当時、新聞社は、東京に一局集中していました。
この頃の新聞は、活版印刷といって、一文字ずつ文字を手作業で拾って並べて新聞紙の印刷です。
このため東京にあった新聞社では、活版印刷のための活字ケースが地震で倒れて活字が散乱し、印刷機能が停止してしまっていたのです。
これに加えて、東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く13あった新聞社が、すべて社屋を焼失してしまっていました。
このため、最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付の夕刊を発行するまで、首都の報道機能は、印刷という行程において完全に麻痺してしまっていたのです。

そこで大手新聞社の記者や、地方新聞の東京、横浜などの支局員が、関東大震災の模様を取材し、それを地方にある新聞社に連絡し、それを営業できる地方の新聞社が印刷して、各地での号外となっていたわけです。

当時の新聞記事を見ると、震災後の混乱の中で、在日の不逞朝鮮人たちが連続放火を繰り返したり、略奪、暴行、婦人凌辱等を行い、それらの証拠隠滅のためにさらに放火を繰り返すといった、悪さの限りを尽くしていたことがわかります。
中には、爆弾まで使って放火や略奪、窃盗をしていた者まであり、これにはやむなく陸軍が出動して鎮圧を行っています。

このときの内閣は、山本権兵衛内閣です。
山本総理は震災の翌々日に「公式発表」を行っています。
「不逞な朝鮮人については、
 三々五々群を為して放火を遂行、
 また未遂の事実があるが、
 既に軍隊の警備が完成に近づきつつあり。
 国民のみなさんは、恐れないでください。」
これが「公式」に行なわれた発表です。
在日不逞朝鮮人たちによる、略奪や暴行、放火は「事実だった」ということです。

最近では関東大震災において「朝鮮人による凶行はデマであった」という風説がまかり通っています。
けれどそれがデマでなかった証拠には、
「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」
「不逞ではない朝鮮人保護のため、
 警視庁は取締りを完全に遂行せよとの急告通達を出した」
(大阪毎日新聞)などの報道があります。
実際に軍も警察も暴動の鎮圧に乗り出しているのです。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3500.html
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知りませんでした。

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今の日本の偏向報道を見れば、
事実だったと確信しますね

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お亡くなりになった方々の
ご冥福をお祈ります。

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