百人一首97番の真意に感動

 来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
         権中納言定家


百人一首97番にある藤原定家です。
歌を簡単に現代語に訳すと、
「来ぬ人を松帆の浦の夕凪時に焼かれる藻塩のように身も焦がれつつ」となります。

この歌は『新勅撰集』(八四九番)に撰入され、詞書には「建保六年内裏歌合恋歌」とありますから、歌の優劣を競う歌会の場で、藤原定家が「恋」をテーマに詠んだ歌とわかります。
ですからこの歌は、恋の歌であり、来るあてのない恋人を、夕暮れの海岸で忘れられずに待っている、そんなシチューションを詠んだ歌であると、多くの解説書が解説しています。
恋しい思いを断ち切ることは、千年前も今も簡単にはいかないことですから、定家が女性の立場になって詠んだこの歌を、純粋に恋歌として鑑賞しても、もちろん構わないと思います。

ただし、この歌を「百人一首」の第97番歌として干渉するときは、いささかその意味合いが異なると思います。
以前にも申し上げましたが、「百人一首」は、百首の歌を、ぜんぶ合わせて一首の歌にして、飛鳥、奈良、平安と500年続いた朝廷と貴族による平和で安定した世の中の有様を後世に伝えようとした一大叙情詩だからです。

ですから当然、歌の順番に意味があり、一首一首を丁寧に紐解いて歌の真意を探っていくと、思いがけない深い意図があることに気づきます。
また歌には「権中納言定家」と職位が付されています。
歌に職位が付されているということは、職に関係した歌として読む必要があります。
同じ佐藤さんでも、「佐藤さん」とお呼びする場合と、「佐藤部長」とお呼びする場合では、そこに込める意味が異なります。
ましてこの歌の場合、百人一首を編纂した藤原定家が、自分の作品を紹介するにあたって「権中納言」と職位を付しているわけです。

そしてこの歌はまさに、「百人一首」の97番という大団円に挿入された歌です。
しかも選者である藤原定家自身が、自分の名前に「権中納言定家」と、職名を付して書いています。
なるほど恋歌として披露された歌ですけれど、恋歌だから「愛してるぅ」とか「恋してますぅ」みたいなことばかりを歌に詠んでも、それだけでは深みがありません。


まして藤原定家は政治家です。
世相や世情を、恋歌に託して読む。
そうすることで、「なるほど!」と読ませる。
そういうことができる歌人だからこそ、当代一級の歌人とされたのです。
つまりこの歌には、表面上「恋に焦がれる思い」を詠んでいるようでいて、実は、定家の職に関連した公的な意味が込められているということです。

藤原定家と同時代を生きた人であれば、定家が「恋に焦がれて」なんて詠んだら瞬間的に、恋とは別の意味があることを察しかもしれません。
なぜなら当時の社会情勢や人間関係、定家の人柄や考え方をよく分かっているからです。
けれど千年の時を超えて定家の歌に触れる私たちには、それが分かりませんから、何かほかの手がかりが必要になります。
それが歴史であり、「百人一首」の歌の配列であり、歌人名の表記方法であるわけです。

定家の歌の前に配列されているのは、参議雅経であり、前大僧正慈円であり、入道前太政大臣です。
そしてそれぞれの詩は、いずれも貴族政権から武家政権への移行により、世が乱れることを憂い悲しむ歌です。
さらにいえば藤原定家自身も、まさに時代に翻弄される人生を送った人でもあります。

定家が生まれたのは、平清盛の全盛期です。
二十代の前半に「源平合戦」があり、その後、鎌倉幕府の成立と相次ぐ内乱がありました。
それまで日本の歴史は、和を貴ぶ歴史です。

ちなみに「和」という漢字は、「のぎへん」に「口」と書きます。
「のぎへん」というのは、穀物のことを指します。
ですから「和」という漢字は、穀物をみんなの口で分け合うという意味があり、そこから「和」という日本的な意味に使われる漢字になっています。
そして日本は「おおいなる和の国」です。
だから「大和(やまと)」といいます。

そのようなわけですから、日本人は本来、「和」の対局にある「乱」を嫌います。
「乱」という漢字は、もともとは「亂」と書きました。
この字は、もつれた糸を引っ張りあうるさまをあらわします。
乱れ、もつれた糸をひっぱりあったら、もっと混乱します。それが乱です。

ところが保元の乱以降、平安時代の後期から鎌倉時代の初期にかけては、いまの時代でいえば、国会の本会議の席上に、武装集団がなだれ込んだような状態になったのです。
国内は騒然となり、人と人が殺し合い、多くの血が流れるという時代になりました。
そんな時代を、なんとかしてもとの平和と安定の時代に戻したいということが、藤原定家をはじめとした、当時の朝廷の皇族や貴族たちの願いですし、武士たちの願いでもあります。

この歌にある「藻塩」とは、海藻から採る塩のことです。
古代から中世にかけては、海藻に海水をかけて天日干しし、これを焼いて乾燥させたものを水に溶かし、それを煮詰めて塩を精製していました。
ですから藻塩は長時間、火にかけて作るものですし、それに塩は人が生きていくために絶対に必要なものです。
そして同様に、人々が暮らす社会においては、人の身体に塩が必要であるのと同様に、世の平穏と安定、そしてなにより平和こそが大事です。

そういう平和な日々を、なんとしても取り戻したい。
けれど、そう思うそばから、世の中がどんどん崩れいていく。乱れていく。
だからこそ、世の中の平安を取り戻したいという定家の願いは、まるで来ない人を夕方の海辺で待っているような情況です。
そして、人々に必要な藻塩を焼いて取り出すように、乱世の中から平和と平穏を取り戻したい。
その思いは、まるで「身をこがす」かのような思いです。
定家は、そのことをこの歌に託しています。


日本人が理想として目指してきた国のカタチは、平和で平穏で、誰もが安心して安全に暮らせる世です。
これは太古の昔も、いまの日本も、まったく変わらない日本人の思いです。
そしてその思いは、一部の大金持ちだけの繁栄と贅沢を実現するために他の大多数の国民が犠牲になる社会とは、真っ向から対極をなす思いです。

権力や財力を手に入れた人たち(これをウシハク人たちといいます)は、その権力や財力にものを言わせて、さらに自己の利権を拡大しようとします。
彼らにとって、民衆は力のない存在であり、ただ利用主義的に利用するだけの存在であり、虫けらのように踏みつけても殺しても、ただ次から次へと湧いてくる存在です。
民衆の安全など眼中になく、おのれの都合だけが優先します。

先般、鬼怒川の河川敷に設置した太陽光発電施設が原因で堤防が決壊してたいへんな被害が出ました。
自己の利権の都合だけで、民衆のことを考えない。
だからあのような事故が起こります。

この時期、日本全国、雪の被害に悩まされます。
首都圏など、1〜2センチ雪が積もっただけで、交通網が遮断され、たいへんな事態となります。
けれど考えてみれば、日本がいま支那や韓国に無償で、ただあげているお金や、国内でまわりまわって沖縄での左翼の合宿デモのお金を出したりといった無駄金を使う暇があったら、その予算の一部を首都圏交通網の雪害対策に回すだけで、線路に雪が積もらず、幹線道路の雪が溶け、空港の利用停止が起きなくて済むようになるのです。

大臣の金銭疑惑を追求する政党はあるのに、雪害対策を追求する政党がないのは、いったいなぜなのでしょうか。

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世界が納得する日」より一部引用
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百人一首をこんな風に読み取ることができるなんて!

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これを恋愛の歌としか教えていない国語教師は
勉強不足だと思う

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でも、ほとんどの教師が恋愛の歌と教えているだろうし、
本屋さんに並ぶ解説本もそうだと思う。

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まさに、一億総白痴化状態かもね。

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一人でも多くの人に知ってもらいたいです。

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