新自由主義経済は実は後進国の考え方

今朝、齢85歳になろうとする母にipadを3年近く日常に使いながら、未だにテレビを見て本当だと思い込み一喜一憂しているのかとたしなめた。

本を1日数ページ読むと翌日には忘れるらしいが、今の私には本当に羨ましい限りだ。

経済のことは自分の年金の額しか頭にないから。

まあシンプルで良いのかも知れないが。

そもそも1960年以前の日本に年金制度なんかあったんだろうか?

国民は何でも鵜呑みにして様々な制度を取り入れているが。

要は無関心になるように戦後の70年間は誘導されてきたのではないか?

よく冗談で「赤信号皆で渡れば怖くない」と言うのがある。

日本人は何故赤が止まり、黄色が注意で、青が進んでいいかをあまり考えない。

ルールの本質よりも互いに譲り合うことが美徳としてDNAに刷り込まれているからだ。

この日本人の特徴は互いに無言でも見ず知らずでも、必要に迫られると「仲間として共同して動く」、と言う現象に裏付けられている。

つまり日々の仕事でも一事が万事のごとくこのように働くのである。

過去の多くの自然災害や戦争で焼け野原になった国土の復興をみても明らかだと思う。

困窮しどんなに生きることに精一杯でも、秩序や規律、そして思いやりの美学がある。

この美学をないがしろにするから問題が起こる。

欧米には失礼だが
グローバリズムによる新自由主義経済は
実は後進国の考え方
である。


賢そうにテレビで御用学者や経済学者がいくら語っても国民にはもう響かない。

そもそも新自由主義者とは経済活動に必ずスローガンのごとく「自由化」を叫ぶ。

具体的に自由化がもたらすものは次の5つであろう。

1、必ず小さな政府にこだわる

2、何かと緊縮財政を強いる
(今ギリシャEUから資金援助の条件で要求されていること)

3、正義のごとく規制緩和を唱える

4、なんでもかんでも自由化
(TPPの慣用句言葉で弱肉強食が大好き)

5、口を開けば民営化
(日本でも郵政民営化による小泉政権下のスローガンで先導に効果実証済)


これらの主張が意味して行き着く先にあるのは、この新自由主義経済下で働く最高の価値とはズバリ「個人評価」である。

要は自己中の単なる
幼稚レベルの成人を繁殖化して
国力を無能化
する目的だ。


次に実体の経済とは不向きな「短期評価」である。

上場会社は短期評価である故に働くも者は物(資本)としてドライに扱われる傾向になる。

過去の悠久の歴史に奴隷制が存在しなかった日本では理解しがたい

さらに分かりやすく言うと、「互いに仲間として成果を出す」日本固有とも言える社会そのものを完膚なきまでに破壊しようとする文明侵略に他ならない。

これは綿密にしかも巧妙に仕組まれた日本文明への挑戦であり、侵略に他ならない。

毎年正月になると一部道路の区間が通行止めになり、ため息が出そうになる。

通行止めの原因は駅伝の競技のためだ。

沿道には旗を振り見ず知らずの人も声援を送り、テレビでは体の不自由な老人も声援を送る。

私が眉を背ける日本の正月で一番長い時間のひとつだ。

しかしこれには深い意味がある。

最近読んだ「国土が日本人の謎を解く」の著者である大石久和氏によると、「元来日本人は仲間と共同して働く」ことで力を発揮し、また「自分の努力が仲間への貢献となる」ことに至福を感じて来たと。(私は今も尚日本人の老若男女すべてが共有できる概念と信じている)


故に日本人が駅伝を好み、大学や地域などの名誉を懸けて頻繁に開催されるのだと。

氏の日本人論は極めて的を射た論拠であり共感できるし、今共に私と働いている人々もきっとどこかで繋がる発想ではないだろうか?

逆に新自由主義にどっぷり浸かる人々から見れば、どうして個人の成果が一番に評価されず、個人の努力が結果にすべて反映されるわけでもないのになぜ駅伝を好きになれるのか信じられないと思うのが普通である。


同じ発想の方がいたらこれはもうすでにマインドコントロールされ脳が汚染されている。

自己認識しないとテレビのスイッチやマスコミの情報を遮断しても容易にすぐ快復しない。

新自由主義者には日本の日本人の強みは理解できないし、仮に理解したとしても参加意識や当事者意識を持った組織構成員の集団パワーには脅威や恐れを感じることだろう。


幕末から大東亜戦争を経て、戦後は巧妙に米国の幻の51番目の州のような半植民地を演じてきた日本の根本に欧米列強が最も忌み嫌ったのが、この日本人の集団のパワーなのである。

私は個人的には米国人は大好きで友人もいるが、今の米国家や金融(通貨制度含む)そして国民に誓いを立てているようでそうでない政府には頭をかしげる

70年前日本は米国に敗戦したが、戦勝国である米国が今日の70年まで平和であった年があっただろうか?

米国は建国してまだ240年足らずだが、平和の時代よりも戦争に次ぐ戦争に明け暮れた。

日本の少なくとも江戸260年間に戦争は国内外問わず1回もない。

確実に何かがおかしいのである。

この機会に個人文化と集団文化とを秤にかけて静かに熟慮してみる価値はあると思う。

宗教でもそうだ、中東のエルサレムでは同じ神を崇める兄弟宗教たるユダヤ教キリスト教、そしてイスラム教が仲良くしたためしはない。

何が聖地じゃと思いたくなる。

しかし日本では紀元前に道教神道に落ち着くと、そこに仏教や儒教が次々に国内に伝来し、宗教戦争どころかすべてが融合した。

6世紀半ばの仏教伝来による物部氏蘇我氏の諍いなど戦争の域には達していない。

同族同士の単なる意見の食い違いによる抗争だから、後にどちらの氏族も末裔は存在し滅んでいない。

ひとつ間違えば日本書紀の編纂時に諍いを作り出し誇張したとも思えてくる。

かといって編纂を実行指揮した藤原不比等を悪く思う気持ちはない。

藤原不比等は親孝行な典型的な次男坊です。

また何か見えない日本古来の普遍性を大切にカモフラージュしようと努力した形跡を感じる。

そう考えれば日本とって国のあり方など根本的には変わるはずもなく、また変えてはならないものなのである。

日本の企業文化も同じだと思う。

時の変遷が組織形態を微妙に変化させたとしても、方丈記鴨長明が言うように「川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず… 」でも水は水に他ならない。

大地が揺るがないごとく、日本人である我々も我々の強みを大切にした企業文化も揺るがないのだ。

揺るがない企業文化の中で理力(フォース)暗黒面の騎士ダーズベイダー卿や、闇の帝王であるヴォルデモート卿に例えられることは真にもって光栄なことだ。

彼らの闇が濃ければ濃いほど光の力は絶大であろう。

その光が今の会社で共に働く人々であるなら、これほど栄誉で喜ばしいことはない。

最高にして最大の光源を発するためには、我々の強みをよく理解することである。


最後までお読みいただきありがとうございました。
http://amenityblog.jugem.jp/
より一部引用
-----------------------------------------------