「おかずは桃屋の花らっきょ」のCMで、中国4千年に~w

日本では、3万年前の磨製石器が発見されています。これは世界最古のものです。
そして1万6500年前には、やはり世界最古の土器が作られていたことが確認されています。そしてこれが縄文時代のはじまりで、その後、土器や土偶などはどんどん工夫されて行き、縄文時代の後期になりますと、あの大阪万博太陽の塔のモチーフになったハート形土偶などの美しい造形物も制作されるようになっていました。
クレタ生活どころか、当時の世界にあっては、まさに最先端ともいえる文化的生活が営まれていたことが、考古学的に実証されているのです。

では、同じ時代の朝鮮半島はどうだったかというと、いまから1万年前から5千年前までの5千年間(一説には12000年前から5000年前の7千年間)もの間、人類の痕跡が途絶えています。その期間の遺跡がないのです。
遺跡がないということは、そこに人が住んでいなかった、ということです。

その後、いまの北朝鮮辺りに人が住むようになったのですが、この種族のことを、古代の支那では「濊族(わいぞく)」と呼びました。
古代の支那人たちは、周辺の種族たちに、それぞれ、ろくでもない漢字をあてていますが(日本は倭で、これは背の低い人という意味の漢字)、糞尿を意味する「濊」という漢字を当てられたのは、古代の朝鮮半島の中部から北部に住む人々だけです。
「濊」は「汚」という漢字と結びついて「汚濊」となりますが、どれだけ汚い民族だったかということです。

もっというなら、汚いということは、同時にオクレタ文明、もしくは文明的に未開であったことを意味します。そのどこからどう日本が教わったというのでしょうか。

さらに稲作については、いまから約6500年前の朝寝鼻貝塚から、大量のプラントオパールが見つかっています。
プラントオパールというのは、植物が土に含まれる珪素(けいそ)土中から吸い上げたとき、その硅素が、葉脈に沿ってガラス質に変化してオパールとなって蓄積するもので、葉脈の形状に沿って固まることから、どの植物によって形成されたのかが特定できるというものです。
オパールは、何千年経っても壊れないし、焼いても形が残るため、土中や土器の破片に含まれるプラントオパールを研究することで、当時、どのような植物が栽培されていたかがわかるわけです。

そして、日本で大量の稲のプラントオパールが見つかったということは、6500年前に、すでに日本では稲作が行われていた、ということです。
そしてその時期の朝鮮半島には、まだ人が住んでいません。

さらにいうならば、朝鮮半島で稲作がはじまったという痕跡は、5世紀頃のものです。つまりいまから1500年くらい前のものです。すくなくとも考古学の実証主義的に見る限り、日本に遅れること4000年の差があるのです。
そうした事実がすでに明らかになっているのに、どうして朝鮮半島から稲作が渡来したことになるといえるのでしょうか。

さらに申し上げますと、稲作は、いまから7千年前に、支那の上海辺りにある河姆渡遺跡(かぼといせき)ではじまり、それが山東半島遼東半島、朝鮮を経由して日本にもたらされたというのが、いまどきの左巻きの学者たちの言い分ですが、そもそも山東半島遼東半島のあたりは、地形が険しすぎるし水利がないため、稲作ができません。
できないのに、どうしてそういう経路で伝わったのか、誰も説明ができていません。
できていないということは、そんな事実はなかったということです。

さらにいえば、河姆渡遺跡の稲作にしても、日本で6500年前の稲作の痕跡が見つかったという発表があったら、突然、支那から7000年前の稲作跡が見つかったことにされています。
けれど、河姆渡遺跡の稲の痕跡が、ではいったいいつの時代のものなのか、これについては、誰も検証していません。
支那の当局が、7000年前のものと発表したから、7000年前となっているだけのことです。

そもそも中国5千年という話も、明治時代に日本にやってきた支那人留学生たちが、当時の日本の皇紀が2500年だったために、「とりあえずその倍くらい言っておこう」とばかり、いきなり5千年と言い出しただけのもので、そもそも根拠がありません。
後に、この中国5千年は、戦後の高度成長期に、さすがに倍だとすぐにバレるからと、
「おかずは桃屋の花らっきょ」のCMで、中国4千年に言い換えられました。
もともと、いいかげんなものでしかないのです。
そのいいかげんな支那が、とつぜん根拠もなく7000年と言い出したから、稲作は支那から渡来したというのは、あきらかに支那におもねる思想であって、これは学問ではありません。


より一部引用
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