時代劇のオワコン化はキムタクのせい!? キムタクもオワコンだけど...

本日からスタートするフジテレビの月9ドラマ『信長協奏曲』。月9初の時代劇というふれこみで注目を集めているが、ストーリーは主人公である男子高校生が戦国時代にタイムスリップするというもので、小栗旬が主人公と織田信長一人二役を演じることが話題となっている。
 そういう意味では、ビッグヒットとなった『JIN─仁─』や、堺雅人主演の男女を逆転させた『大奥~誕生[有功・家光篇]』(ともにTBS系)、前クールの『信長のシェフ』(テレビ朝日系)の系譜にある"SF時代劇"といったほうがいいかもしれない。
 実はテレビから純粋な時代劇はどんどん少なくなっている。民放からは2011年に終了した『水戸黄門』(TBS系)をもって時代劇の放送枠が消滅し、いまではNHK大河ドラマのほかは、同じくNHKの「木曜時代劇」枠、NHK BSプレミアムの「BS時代劇」がかろうじて踏ん張っている状態だ。こうした状況を憂って、「時代劇は死んだ」という往年のファンが多いのも事実だ。
 しかし、なぜ時代劇はこのような状況に追い込まれてしまったのか。先日発売された『なぜ時代劇は滅びるのか』(春日太一新潮新書)はその理由を事細かに分析しているのだが、興味深いのは、役者の技量不足と、最近の役者に顕著な"自然体演技"を批判していることだ。
 たとえば、著者が本書で酷評しているのが、『仕掛人 藤枝梅安』(06年/フジテレビ系)における岸谷五朗の演技だ。これまで同じ役を緒形拳小林桂樹渡辺謙といった錚々たる名優たちが演じ、それぞれに名医として慕われる一方で裏では金で人を殺める仕掛人という顔をもつ梅安の「二面性や非情さ」を表現してきた。が、岸谷は「自然体で演じたい」として、〈現代的な日常性で演じること〉を選択。結果、岸谷版梅安は〈能面のような無表情の男がウロウロしている姿が終始映し出され(中略)何を考えているか分からない、間抜けな梅安がそこにいただけだった〉と、著者は猛烈に批判している。
 だが、これは岸谷に限った話ではない。著者も〈最近の俳優の多くに見られる傾向だ〉と言及しているが、ここで頭に浮かぶのは、"Mr.自然体演技"であるあの人の顔だろう。そう、SMAP木村拓哉である。
 木村といえば、山田洋次監督の藤沢周平三部作のひとつである『武士の一分』(06年)で失明してしまう下級武士・三村新之丞を演じたが、現代劇と同様にその演技は"どこを切ってもキムタク"。藤沢シリーズの他作品である『たそがれ清兵衛』(02年)の真田広之や、『隠し剣/鬼の爪』(04年)の永瀬正敏が時代劇のリアリティを体現していたことと比較すると、木村はまるで舞台や時代設定を拒絶した"浮いた人物"でしかなかった。
 本書でも指摘されているが、時代劇での"自然体"というものは、〈「作り込んだ芝居」を観客に違和感なく受け止めてもらうために技術を尽くした結果得られるもの〉である。時代劇は現代とは違う、いわば〈異世界のキャラクター〉を演じなければならないもの。着物を着こなし、所作を身につけ、時代の価値観や役を掘り下げて、はじめて違和感は払拭されるというのだ。
 しかし、こうした役へのアプローチは、時代劇に限らず現代劇でも必要な作業だ。木村にはそれがないからこそ、跳ね上がりの検事を演じても、未来からやってきたアンドロイドを演じても、変人の脳科学者を演じても、すべてが同じ演技だと言われ、"キムタク"というオフィシャルイメージの枠から抜け出せないのではないか。
 少なくとも同じSMAPでも、稲垣吾郎が月9ドラマ『流れ星』(10年)で主人公を追い詰める冷血な兄を演じていた際は、つづく『SMAP×SMAP』を観るたびにその落差に震えたものだが、『HERO』の場合はそんな動揺を受けることなく、ただそこにジーンズからコック姿に衣装チェンジした人物が映っていた。──そう考えると、木村の演技は役や舞台を踏まえた"自然体"などではない。たんなる"ありのままの自分"なだけではないのだろうか
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そういえば、「自然体」とか、「ありのままの自分」とか「自分らしさ」とか・・
多用されていますよね~
 
なんだろう・?
何かのキーワードなんだろうか。
 
日本の力が発揮されるのは、一致団結する力。
 
それを阻むために考え出されたのかな。
 
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