京都の市バスで足の不自由な女性を介助しようとして罵倒された運転士が気の毒だった件

■障害者の方から罵倒されたバスの運転士


あるバス停で、足の不自由な50歳くらいの女性がバスに乗車しようとしたのだが、乗車口の段差を上がるのに難儀していた。

それを見た若い男性の運転士は、運転席を離れて女性のとこへ行き、女性が段差を上がるのを手伝おうとした。

私は、運転手の行動を心の中で「素敵だ!」と思っていたのだが、次の瞬間、耳を疑ってしまった。

その女性が運転手に対し「ほっといてちょうだい!誰も手伝ってなんて言ってない。」と、大声で罵声を浴びせたのだ。

運転手は席に戻り、女性が着席するのを待ってバスを発車させたが、女性はバスの中でも、大きな声で運転手に対して非難する言葉を投げ続けていた。

■女性の気持ちは分かるが


女性の気持ちを察すれば、「私は自分でできることは自分でやりたいのよ。」と思ったのであろうことは理解できる。

しかし、そうであったとしても、私はなぜ運転手が罵声を浴びなければならないのかが納得できなかった。そこで、しばらく時間を置いて冷静に考えてみたのだが、私はこの事件の一部始終を見て、2つの問題点を感じた。

■障害者・健常者の前に「人」と「人」


第1は、女性が運転手を罵倒した行為自体の問題だ。

障害者の方だから、ということではなく、そもそも「人」と「人」とのコミュニケーションとして、問題があったのではないかということだ。障害者の方であれ、健常者の方であれ、他人から何らかの親切を受けたならば、辞退する場合であっても、お礼を言いこそすれ、罵倒するなどあってはならないことではないだろうか。

私が見た限り、運転手は「早くしないとバスが遅れてしまうんだよ!」というビジネスライクな対応ではなく、純粋に女性の方を気遣っての行動であった。親切心から女性を助けようとした運転手が、傷ついたり、トラウマになったりしないか私は心配だ。
 
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お~。
よくぞ言ってくれた。
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まさに、日本が入り込んでしまった罠。
 
「弱者の正義」
 
日本が、滅びの道をたどるための道しるべ。
 
目を覚まそうよ。
障害者が善でもなければ、正義でもないということ。
 
人としての有りよう。
障害があろうとなかろうと。
在日韓国人であろうとなかろうと。
 
恫喝も恐喝も恐れずに生きたい。
 
「人間」 対 「人間」。
 
未来の日本のために
今こそ、正しい道しるべをつかもうよ。
 
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