百人一首 一番

1番歌 天智天皇
 秋の田の
 かりほの庵(いお)の
 苫(とま)をあらみ
 わが衣手(ころもで)は
 露(つゆ)にぬれつつ

 
 
この歌の通解を読むと、多くの本が「秋の田んぼの脇にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてしまったよ」と書いています。
秋の田んぼのわきに、目の荒い、藁(わら)でできた茣蓙(ござ)を屋根にした、ほったて小屋があって、”ござ”の目が粗いから雨漏りして、ワシの着ている服が濡れちまったよ、というわけです。

これではまるで、そんなところに案内をした部下の不手際を、天智天皇がとがめて文句を言っているみたいです。
「まさか」とびっくりしてしまうけれど、最近の解説書は、たいていどの本を読にも、そういう歌だと書いてあります。

おそらく、天皇支那の皇帝のような威張り散らした絶対権力者のような存在に仕立てたいのでしょう。
上の通解では、そういう意味になってしまいます。
果たして、天智天皇を、そのようなムシロの屋根の下にお連れした係の者は、天皇の着衣を濡らしてしまったことで、首でも刎ねられたのではないかと、心配にさえなってしまいます。

ちょっと待ってよと言いたいのです。
もしこの歌がそんな歌なら、この歌のどこがどう「名歌」なのでしょうか。
いくらなんでもこれでは歌の詠み方が貧弱すぎるのではないでしょうか。

仮にも百人一首は、古今の「名歌」を集めた歌集です。
しかもその「イの一番」に出てくる、わが国の基礎を築かれた陛下の御製です。
それが、まるで暴君がプンプンと怒って横暴な言動をしているかのような歌が、わが国の古今の名歌の筆頭歌になるのでしょうか。
そこで歌をすこし詳しくみてみます。

歌い出しは「秋の田」です。
秋は稲の収穫のときです。
そして「かり穂(=刈り穂)」と続くのですから、田んぼの稲が刈られたあとの時期です。
その刈り取られた田んぼの脇に、庵(いおり)があるわけです。
「庵」というくらいですから、小さな「草庵」のようなものが連想されます。

問題は「苫(とま)をあらみ」です。
「苫(とま)」というのは、ワラなどでできたゴザのことをいいます。
「あらみ」は、「あらい(荒い)」と「あみ(編み)をかけています。
ですから、目の粗いゴザを編んでいる、という意味です。

稲は、実がお米になりますが、茎や葉も利用されます。
稲刈りの後に田んぼで天日干して乾燥させ、乾燥した茎や葉でゴザや縄、ワラジや、冬のためのカンジキ、雑囊袋などに編んで用いて生活に役立てるわけです。
稲は、実だけでなく、茎も葉も、そのすべてが私たちの生活に役立つ植物です。

その茎や葉は、稲刈りあと、田で天日干しして乾燥させます。
そして乾燥させたものが藁(わら)で、せっかく乾燥したのに雨に濡れたら意味がないので、これを屋根のついた作業場に持ち込みます。これが「庵(いお)」です。

そしてその庵の中で、人々は、ゴザや縄など、生活に必要な物資を手作業で作るのです。
ここまでが上の句です。

そして天智天皇は、下の句で「わが衣手(ころもで)は露に濡れつつ」と詠まれています。
「我が」衣手が「露に濡れた」とおっしゃられているわけです。

なぜ、濡れたのでしょう。
作業場に立たれただけなら、袖も手も濡れません。
天智天皇ご自身が、作業をする人々と一緒になって苫(ゴザ)を「あらみ」、つまりご自身でゴザを編まれ、一緒になって作業されたから、濡れたのです。

濡らしたのは「露」です。
露は、夜になってからの夜露と、早朝の、夜明け前の朝露があります。
歌には、夜露か朝露か書いてありません。
ただ「露」とあるだけです。

つまり、大改革を成し遂げた偉大な天皇が、ご自身で、お忙しいご公務の間をぬって、夜露に濡れる夜遅くまで、あるいは朝露に濡れる夜明け前の早朝から、民と一体にあって、ご自身の手でワラを編まれていると、この歌は、そう書いているのです。

つまり「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」は、秋の田んぼの刈入れのあと、ワラを乾かし、そのワラでゴザを編むお仕事を、大化の改新を挙行され、わが国最高位となられた天智天皇ご自身が、一般庶民とまったく同様にむしろ率先して朝早くから夜遅くまで働いている、そういうお姿が描かれているのです。

ワラでゴザを編むくらいです。
ということは、おそらく天智天皇は、田植えから、稲の刈り取り、ワラの天日干し、庵への運搬、そして運び込んだワラでゴザや縄やワラジを編むお仕事まで、民とともに御作業をされていたのでしょう。

しかも「あらみ」です。
天智天皇は、ご自身でご自身やご家族が使われる「ござ」を編んでおいでなのですが、そのゴザは「目が荒い」のです。
ゴザは、目の細かなものが、それだけ編む手間がかかりますから良質とされます。
けれど天智天皇は、ご自身やご自身の大切なご家族がお使いになるゴザに、粗末な目の荒いゴザを編んでおいでなのです。

世界の王や皇帝は、絶対権力者として君臨し、国民を絞り上げて、ありとあらゆる贅沢の限りを尽くす存在です。
けれど日本の基礎を築かれた天智天皇は、政権そのものを後任に譲られ、ご自身は国の最高権威というお立場にお就きになれながら、ご自身で田植えをし、稲刈りをし、ワラを天日干しし、庵にはいって朝露に濡れる早朝から、夜露に濡れる深夜まで、衣手を濡らしながら、ご家族のために粗末な目の荒いござを編まれているというのです。

大化の改新によって起きたことをひとつだけ申しあげます。
それはこの大化の改新のときから、わが国が、わが国独自の元号を使い出した、ということです。

ですから西暦645年が、大化元年で、これがいま、明治、大正、昭和、平成と続く、わが国の元号のはじまりです。
そして、独自の元号を用いるということは、わが国が、完全に支那文明から決別して、完全に独立した国家として、独自の政治、文化、文明の道を歩み始めたということを意味します。
そして、このすこし後(持統天皇の時代)に、わが国は、公式に外交文書でも「日本」の国号を用いるようになっています。

つまり、ものすごく詰めていうなら、天智天皇は、皇子時代に大改革を断行し、皇太子としてわが国の独立自尊を成し遂げ、これを定着させて第38代天皇となられた偉大な天皇です。
その偉大な天皇が、民とともに、民といっしょになってお手ずから田植えをし、刈入れをし、ワラを干し、干したワラでゴザを編んでおいになるわけです。
それも、夜遅くまで。朝早く朝からです。

日本の平均気温というのは、だいたい600年ごとに暖かくなったり、寒くなったりしています。
天智天皇の時代はとても寒い時代で、その寒い日本で、早朝から深夜まで、民とともに働く。

歌には「秋の田の」とあります。
それも「刈り穂の秋」ですから、刈入れが終わった頃、つまり、朝晩がめっぽう寒くなって来た時期です。

その寒い中を、早朝から深夜まで、陛下ご自身が作業されている。
これが「天壌無窮の神勅」をいただく、わが国の最高元首のお姿です。

そして私たち庶民は、大化の改新によって、その天皇直轄の民と規程されました。
ということは、私たち庶民は、豪族たちの私有民ではない、ということです。
その豪族たちのはるか上位におわす天皇直轄の民なのです。
ですから私たち日本人は、中華文明圏にあるような、豪族たちの私有民として収奪や奴隷の対象となっていません。
これはある意味、究極の民主主義が確立された、ということです。

そしてその中心におわす天皇が、御みずから、「わが衣手」を「露」に濡らしながら、率先して働いておられるのです。
それも露に濡れる祖末な庵で、です。

そしたら、私たち庶民は、やれ暑いだの寒いだの、雨に濡れるだの手が汚れるだの、我儘なんて言っていられません。
とにかくみんなと一緒に黙って働くしかない。
これが君民一体です。
そういうありがたい歌が、百人一首の1番歌だというわけです。

田んぼで大人たちが農作業しているそばで、子供たちが遊んでいる。
「おいっ!お前たち。この世はなあ、天子様だって朝早くから夜遅くまで働いておいでなんだ。百人一首にそう書いてあったろ。こら!お前たちも一緒に仕事を手伝わんかっ!」
お父さんやおじいちゃんの、そういう声がなにやら聞こえてきそうです。

この御製は、決して「秋の田んぼのわきにあるほったて小屋には、藁で編んだゴザを屋根の代わりにがかぶせてあるけれど、ゴザじゃあ、目が粗いので、私の来ている服の袖が濡れちまったじゃねーか」なんて、御歌ではありません。
それではまるでクレーマーです。
そんなクレーマー歌なら、子供の教育上も良くないし、そんな良からぬものなら、大人たちが何百年もの間、おめでたいお正月のかるたとりになんて、絶対に使いません。

けれども、天子様自ら働き、国民みんなが一緒になって働く。
それが「はたを楽にさせる=はたらく」を大切にする私たちの国のカタチであり、その歌が、百人一首の1番歌であるとわかれば、大人たちは、すすんで我が子に、その「かるた」を薦めます。
神社だって大勢の子供たちを集めてかるたとり大会をします。
そしてそれが習慣となって定着し、何百年も続きます。

小倉百人一首は、「大化」の改新の天智天皇に始まります。
後世のいまを生きる私たちは、決して「退化」したくないものだと思います
 
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「ねずさんのひとりごと」を読んで感動しました。
もちろん、本もすぐに買いました。
すごいです。。