【正論】拓殖大学大学院教授・遠藤浩一 全体主義が鎌首をもたげている

【正論】拓殖大学大学院教授・遠藤浩一 全体主義が鎌首をもたげている
2009.12.23 02:44

このニュースのトピックス:正論
 ≪小沢氏の異常な民主主義観≫

 民主党政権は「3K」すなわち「基地」「経済」「虚偽献金」の3つの問題を抱えて立ち往生しているといわれるが、これに「皇室への不敬、不埒(ふらち)、不遜(ふそん)」という4番目の「K」が出来(しゅったい)した。

 最初の3つと皇室にかかわる問題を並べるのは畏(おそ)れ多いことではあるが、この「4K」は、いずれも小沢一郎幹事長の目的なき権力志向および浅薄な民主主義(憲法)観、鳩山由紀夫首相の指導者としての資質の欠如、民主党所属議員の不甲斐(ふがい)なさがもたらした問題であり、相互に連関している。

 幹事長の“命令”に官邸が右往左往し、結果的にルールを逸脱したかたちで天皇陛下にご負担をおかけした問題については既に多くから指摘されているのでここでは措(お)くが、見過ごせないのは記者会見で同氏がまくしたてた異常な民主主義観、憲法観である。

 14日の記者会見で、小沢氏はいささか昂奮(こうふん)した口調で「30日ルールって誰が作ったのか」「国事行為は『内閣の助言と承認』で行われるのが本旨で、それを政治利用と言ったら陛下は何もできない」「陛下ご自身に聞いてみたら、手違いで遅れたかもしれないが会いましょうと必ずおっしゃると思う」「内閣の一部局の一役人が、内閣の方針にどうだこうだと言うなら、辞表を提出した後に言うべきだ」などと語った。

 ≪党議拘束で「賛成」を強要≫

 一知半解の憲法論を楯(たて)に年下の記者相手に怒鳴りまくる姿は滑稽(こっけい)というほかないが、「陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんだ、全(すべ)て」(同)という憲法観、民主主義観は尋常ではない。要するに小沢氏は、国会で多数派を形成した党派は万能であり、皇室も支配できると言っているに等しい。

 選挙前、子ども手当やら農家への戸別所得補償といったバラマキ政策の財源が党内で議論になったとき、「そんなものは政権を取りさえすればなんとでもなる」との同氏の一声が異論を吹き飛ばしたと伝えられるが、「政権を取りさえすればなんとでもなる」というこの言葉に〈小沢一郎〉という政治家の全てが凝縮されているように思われる。

 選挙という民主主義的ツールを活用して多数派を形成すれば、あとは何でもありというのは、全体主義が鎌(かま)首をもたげ始めるときに特有の光景である。

 同じ記者会見で、外国人地方参政権付与法案について小沢氏は「政府が提案するというのは、私どもの政府が提案すること。自分たちの政府が提案したことには、賛成するのが普通ではないか」と、党議拘束をかけて所属議員に賛成させる方針を示唆した。

 これはおかしい。この件について民主党は議論を回避するためにマニフェストから外して総選挙に臨み、政権を獲得した後、党内でこの問題について真剣な議論が展開された形跡はない。そもそも党内論議の場は政権発足とともに廃止されてしまったのである。

 政府内のガス抜き会議で意見は聞きおくが、その後は、政府が提案したことに問答無用で賛成せよと、この幹事長は命じているわけである。また、陳情は幹事長室で一元化して政府に伝達(命令?)するという新たな制度の設置によって、群小族議員は一掃されるかもしれないが、代わりに巨大な族機関が誕生してここが利権の全てを集約することになる。陳情の一元化とは、とどのつまり利権の一元化にほかならない。

 天皇会見をめぐる強引な圧力に懸念を表明した羽毛田信吾宮内庁長官に対して、小沢氏は「日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない」と、天に唾(つば)するようなことを言って失笑を買ったが、小沢氏の憲法観、民主主義観にこそきわめて危険なものが内包されているのである。

 ≪異論や批判の言えない状況≫

 問題は、こういう人が事実上専制的に国政を牛耳っているにもかかわらず、しかも、皇室に対してまで不遜な言動をしているにもかかわらず、党内から異議や批判がほとんど出ないことである。今回の一件について公の場で異論を述べた民主党議員は、私の知る限り渡部恒三衆院副議長と渡辺周総務副大臣だけである。

 大方の議員は幹事長に命じられた通り、次の選挙に勝つことと政府提案に賛成することだけが仕事と心得ているように見受けられる。小沢氏や鳩山氏に対する批判が党内から出ないこと自体が、自由で民主的な社会にあってはきわめて異常というべきである。

 政権を取れば全てが可能になると小沢氏は思い込んでいるようだが、同氏および彼の前で身を竦(すく)ませるだけの民主党諸氏には、再び哲学者、ハナ・アーレントの次の言葉を呈したい。

 「すべては可能であるという全体主義の信念は、すべてのものは破壊され得るということだけしか証明してこなかった」「不可能なことが可能にされたとき、それは罰することも赦すこともできない絶対の悪となった」(えんどう こういち)