舛添都知事が密入国ブローカーだったとは・・!

舛添知事は鄭議長との会談の席で、

「1930年5月に福岡県若松市議会議員に出馬した父親弥次郎氏が広報チラシにハングルの名前を併記し、当時福岡に住んでいた韓国人の人権改善を公約として提示したと説明して父親の広報チラシ写真を見せ、代を継いだ韓国との親密な関係を強調したと議長室関係者が伝えた。
(中央SUNDAY第385号)
 
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上記記事、つまり禿知事が主張する
父親の出馬した1930年という年と、
若松市議会議員という場所。
この時期前後、1926年頃から、
若松市やそこを取り巻く、芦屋、遠賀川周辺などは、
密入国朝鮮人集団の密入国が頻発し、
日本人の住民や警察は地域ぐるみで
摘発、犯罪防止、通報に
全力を挙げていた時代である
という指摘があります。
皆さん口を揃えて、そのように訴えられました。


その時期に、朝鮮人の人権擁護なんて有り得なく、
本当ならば、密入国ブローカーであった
疑いをかけられて当然だ

という指摘があります。
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密入国ブローカーであった疑い
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そのような地元周辺の名士たちの
指摘と証言の裏取りをすべく、
当時の福岡県の新聞記事を調べました。
地元民たちの指摘は、
新聞記事からも間違い無い事を確認しました。
1926年頃から、全国的に
朝鮮からの密入国が多発しています。
禿知事出身の福岡県も同じく、
全域に
朝鮮からの密入国集団が殺到しています。
正規の入国ルートではないので、当然、
国家、警察も摘発と送還に必死であったことを確認しました。



次に今までWEBなどで、そのような主張を
している人がいたかを調べたところ、数人おられました。
 
 
朝鮮人の人権擁護などと
寝言を言っている場合ではなく、
1930年に市議会選挙で
朝鮮人の人権擁護なんかやっていたら、
住民から総バッシングを受ける
噴飯物ですよね
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若松市だけを抜き出した新聞記事を紹介します
 
『廿八名の鮮人若松に密航(若松市)』 福岡日日 1931/8/17 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航
『またも密航鮮人(若松市)』 福岡日日 1933/6/7 〔1/3〕 北九州・福岡 【渡航
『名密航/若松に上陸』 九州日報 1934/12/12 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航
『若松築港へ密航鮮人(若松)』 門司新報 1934/12/12 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航
『密航鮮人逮捕(若松)』 九州日報 1936/12/26 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航
『密航鮮人十三名を検挙(若松市)』 福岡日日 1936/12/26 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航
『密航鮮人(若松市)』 福岡日日 1937/3/24 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航
『深夜の若松へ密航鮮人群上陸/水陸より包囲されその儘逃走(若松)』 門司新報 1937/3/31 〔1/5〕 北九州・福岡 【渡航
『密航船座礁 半島人六十名を乗せた儘/船長は逸早く逃走(若松)』 九州日報 1938/12/5 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航
『五百人を密航させ五千円を捲あぐ/密航船坐礁、船長逃走』 大阪毎日 1939/1/21 朝鮮 〔5/9〕 北九州市若松区・福岡 【渡航
『前科六犯を持つ密航ブローカー捕はる/若松市で豪遊中を』 大阪毎日 1939/7/18 北九州 〔5/9〕 若松・福岡 【犯罪】
『又も密航(若松)』 九州日報 1939/8/1 〔1/7〕 北九州・福岡 【渡航
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1923年、そう、関東大震災
その年の暮れに朝鮮人共産主義者による
昭和天皇暗殺【当時は摂政】事件です。
虎の門事件の年、朝鮮人のテロ集団が
大挙して日本に押し寄せたのは
本当だった事が、
新聞記事からもわかります
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