頑張らなければ幸せになる=アリとキリギリスの逆バージョンか(笑)
8月に突入しました。冷夏の予想は大きく外れて酷暑の日々が続いていますが皆様いかがお過ごしでしょうか?
さて、夏休みを過ごす子供に宿題や勉強を促した経験のある親御さんなら分かると思いますが、まず逆効果ですね。
子供は遊びたいわけですから無理ですね。
子供に「勉強」の二文字を語る時ほど情けない事はありません。
これは間違いなく親の悪あがきですから。
ある著名な学者が「頑張らない方がIQが高くなる」と豪語されていますが、読んで共感してもいざ自分の子供となると直ぐ酔いから覚めて無駄な言葉を発しています。
小学生5年の息子は両親よりも色白で最近のあだ名は「もやしっ子」で「ゲームオタク」と呼ばれています。
双方が体育会系の両親はただただ困惑するばかり。
推測ですが任天堂のDSゲームを自由にさせていると、朝から晩まで熱中し最悪の場合徹夜する勢いでやりそうです。
以前、指に豆が出来ていたので何かスポーツに熱中したのかと思いきや、DSのゲームとタブレットのゲームのし過ぎでした。
もし子供がゲームに熱中し、徹夜したら「凄い集中力ね、一体将来何になると?」と褒めて絶賛する親は少ないと思います。
大抵は「バカじゃないの、このままでは成績が下がり落ちこぼれになって、将来は引きこもりでニートになるぞ」と子供に注意喚起し、我が子の行く末に不安を持つ親が多いのではないでしょうか?
もしこれが夏休みの宿題や課題研究などの勉学だったら、親は一体どのようなリアクションをするのでしょうか?
おそらく「程々にね、無理しないでやってね」などとバランスを説く一方で、内心は胸を撫で下ろしているのかも知れません。
しかし先日私はある事に驚愕したのです。
子供の夏休みの宿題や課題に使う教科書の厚さと、子供がお小遣いで購入したDSのゲームソフトの攻略・手引本の厚さの違いに。
厚さが約5センチ以上もある手引書が4冊と、その一冊の厚さにも満たない夏休みの宿題や課題研究の教科書の厚さの違いに少し面食らってしまったのです。
そして、私が手にして読んでも明らかにゲームの手引書の方が難解で、読みづらく学校の宿題の方がすんなり出来そうな気がして来るのです。
現代の子供たちと私達の世代を同じにするのは極めてアンフェアーだと思いますが、明らかに今の遊び玩具が当時よりかなり洗練されていて、刺激的である事は歪めない事実です。
だから、あんな気の遠くなるような分厚いソフトウェアの手引書よりも難解で、且つ様々なキャラクターを覚えなければならない面倒な攻略本を読んでるわけです。
よく、頑張らない方が成功すると言う類いの書籍が巷で売れていますが、人は好きな事は放っておいてもやり続け、嫌いな事は放っておいてもやらないように無意識に努力しています。
だから子供にも「頑張れ」と言う言葉は禁句なのです。
何故なら「頑張れ」はある意味でいやな事を強いる事なのです。
そもそもただ頑張るなら、ただ我を張っただけだったりしますから。
勉強の二文字も同じ事で、勉めることを強いることですから、言葉の響きそのものに興味や面白みを感じさせないわけです。
さぞかし学校の先生方も御苦労されている事と思います。
子供からすればうざい言葉以外の何ものでもない。
それを言うならある脳学者が言うように、欲求を満たすための情報収集と置換えた方が良いのかも知れませんね。
例えばお金を稼ぐ、異性を引きつける、好きな仕事をするための勉強ではなく、ゲームに勝つと同じで、その攻略のための情報収集活動と言った表現です。
子供心を突き動かすものは興味を注がれたもの、つまり好奇心なのです。
つまり親としてはこれから頑張らなくても、無制限にやり続ける何かを発見・体験する機会を子供に与えてあげれば良いわけ。
不幸な人とは結局好きな事が出来ず、大人になっても出来ない環境に自ら陥れて、詰まるところ己を己で凡人扱いして終わる感じがします。
そもそも頑張らなくても良いのです。
いや頑張らなければならない事そのものが問題なのです。
頑張って一歩一歩人生を積み重ねても、成果の是非もその解釈も人それぞれです。
ただ大きな違いは頑張らなくても、無限大に人生を積み重ねて来た自分に出会えたかどうかではないでしょうか?
仮にまじめに己を強いて頑張って一歩一歩人生を積み重ねて来たとしましょう。
しかしこの場合、もし一歩でも踏み出せば人はある特定の感情を持たざるを得なくなると言います。
それは踏み外した先は常に何かにつけ妬む傾向になると言う事。
さらに始末が悪く悩みが尽きないのです。
何故悩むかと言うと、それは簡潔に言えば「過去に生きる」からです。
踏み外す前の過去には絶対に戻る事は出来ないのに。
このような人生のロジックに人は潜在的に苛まされる事が多い。
そんな人が事あるごとによく多用するキャッチフレーズに「私はもうやるしかない、単純で思慮深くない(アホだから)から頑張るしかない」と。
いかにも己を鼓舞しているようですが、実はある意味で「つまらない人生ですが頑張ります」と言っているに等しいのです。
ただ闇雲に好きでたまらない事を人は「やるしかないかっ」とは言わないわけ。
ある意味でアホになる人生と単にアホになる人生とは明らかに違う。
使い方次第でどのようにも解釈出来て、見定めるのは困難ですが、頑張る事の解釈をひとつ違えると人生はおおきな違いが生まれてくる。
皆さんには頑張らなくても、好きで無意識にやり続けている事がいくつかありますか?
そしてアホ呼ばわりされたとしても、他人に憤りも妬みも覚えないシチュエーションを現在進行形で体感出来ていますか?
http://amenityblog.jugem.jp/
さて、夏休みを過ごす子供に宿題や勉強を促した経験のある親御さんなら分かると思いますが、まず逆効果ですね。
子供は遊びたいわけですから無理ですね。
子供に「勉強」の二文字を語る時ほど情けない事はありません。
これは間違いなく親の悪あがきですから。
ある著名な学者が「頑張らない方がIQが高くなる」と豪語されていますが、読んで共感してもいざ自分の子供となると直ぐ酔いから覚めて無駄な言葉を発しています。
小学生5年の息子は両親よりも色白で最近のあだ名は「もやしっ子」で「ゲームオタク」と呼ばれています。
双方が体育会系の両親はただただ困惑するばかり。
推測ですが任天堂のDSゲームを自由にさせていると、朝から晩まで熱中し最悪の場合徹夜する勢いでやりそうです。
以前、指に豆が出来ていたので何かスポーツに熱中したのかと思いきや、DSのゲームとタブレットのゲームのし過ぎでした。
もし子供がゲームに熱中し、徹夜したら「凄い集中力ね、一体将来何になると?」と褒めて絶賛する親は少ないと思います。
大抵は「バカじゃないの、このままでは成績が下がり落ちこぼれになって、将来は引きこもりでニートになるぞ」と子供に注意喚起し、我が子の行く末に不安を持つ親が多いのではないでしょうか?
もしこれが夏休みの宿題や課題研究などの勉学だったら、親は一体どのようなリアクションをするのでしょうか?
おそらく「程々にね、無理しないでやってね」などとバランスを説く一方で、内心は胸を撫で下ろしているのかも知れません。
しかし先日私はある事に驚愕したのです。
子供の夏休みの宿題や課題に使う教科書の厚さと、子供がお小遣いで購入したDSのゲームソフトの攻略・手引本の厚さの違いに。
厚さが約5センチ以上もある手引書が4冊と、その一冊の厚さにも満たない夏休みの宿題や課題研究の教科書の厚さの違いに少し面食らってしまったのです。
そして、私が手にして読んでも明らかにゲームの手引書の方が難解で、読みづらく学校の宿題の方がすんなり出来そうな気がして来るのです。
現代の子供たちと私達の世代を同じにするのは極めてアンフェアーだと思いますが、明らかに今の遊び玩具が当時よりかなり洗練されていて、刺激的である事は歪めない事実です。
だから、あんな気の遠くなるような分厚いソフトウェアの手引書よりも難解で、且つ様々なキャラクターを覚えなければならない面倒な攻略本を読んでるわけです。
よく、頑張らない方が成功すると言う類いの書籍が巷で売れていますが、人は好きな事は放っておいてもやり続け、嫌いな事は放っておいてもやらないように無意識に努力しています。
だから子供にも「頑張れ」と言う言葉は禁句なのです。
何故なら「頑張れ」はある意味でいやな事を強いる事なのです。
そもそもただ頑張るなら、ただ我を張っただけだったりしますから。
勉強の二文字も同じ事で、勉めることを強いることですから、言葉の響きそのものに興味や面白みを感じさせないわけです。
さぞかし学校の先生方も御苦労されている事と思います。
子供からすればうざい言葉以外の何ものでもない。
それを言うならある脳学者が言うように、欲求を満たすための情報収集と置換えた方が良いのかも知れませんね。
例えばお金を稼ぐ、異性を引きつける、好きな仕事をするための勉強ではなく、ゲームに勝つと同じで、その攻略のための情報収集活動と言った表現です。
子供心を突き動かすものは興味を注がれたもの、つまり好奇心なのです。
つまり親としてはこれから頑張らなくても、無制限にやり続ける何かを発見・体験する機会を子供に与えてあげれば良いわけ。
不幸な人とは結局好きな事が出来ず、大人になっても出来ない環境に自ら陥れて、詰まるところ己を己で凡人扱いして終わる感じがします。
そもそも頑張らなくても良いのです。
いや頑張らなければならない事そのものが問題なのです。
頑張って一歩一歩人生を積み重ねても、成果の是非もその解釈も人それぞれです。
ただ大きな違いは頑張らなくても、無限大に人生を積み重ねて来た自分に出会えたかどうかではないでしょうか?
仮にまじめに己を強いて頑張って一歩一歩人生を積み重ねて来たとしましょう。
しかしこの場合、もし一歩でも踏み出せば人はある特定の感情を持たざるを得なくなると言います。
それは踏み外した先は常に何かにつけ妬む傾向になると言う事。
さらに始末が悪く悩みが尽きないのです。
何故悩むかと言うと、それは簡潔に言えば「過去に生きる」からです。
踏み外す前の過去には絶対に戻る事は出来ないのに。
このような人生のロジックに人は潜在的に苛まされる事が多い。
そんな人が事あるごとによく多用するキャッチフレーズに「私はもうやるしかない、単純で思慮深くない(アホだから)から頑張るしかない」と。
いかにも己を鼓舞しているようですが、実はある意味で「つまらない人生ですが頑張ります」と言っているに等しいのです。
ただ闇雲に好きでたまらない事を人は「やるしかないかっ」とは言わないわけ。
ある意味でアホになる人生と単にアホになる人生とは明らかに違う。
使い方次第でどのようにも解釈出来て、見定めるのは困難ですが、頑張る事の解釈をひとつ違えると人生はおおきな違いが生まれてくる。
皆さんには頑張らなくても、好きで無意識にやり続けている事がいくつかありますか?
そしてアホ呼ばわりされたとしても、他人に憤りも妬みも覚えないシチュエーションを現在進行形で体感出来ていますか?
http://amenityblog.jugem.jp/
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パチンコや賭博にはまれば、それはものすごい集中力で、誰に何を言われても幸せにやっているでしょうね。
麻薬やドラッグにはまれば、誰に何を言われても、暴力をもって遂行するでしょうね。
頑張らなくても、好きでやっているんだから。
そんな社会を目指したいんでしょうね。