「偏差値は日本だけの悪習」はデマ

「偏差値」という言葉には、本来の教育や子どもの姿を歪める悪者としてのイメージがついてしまっているような気がする。
 しかし、偏差値という客観的な指標がなければ、志望校選びは進路指導者の主観に頼るところが大きくなる。受かるはずもない学校をやみくもに受験する子どもも現れ、余計な悲劇を生むことになる。中学受験において、合格可能性を鑑みず、やみくもに受験すれば、全滅のリスクも増す。そのような悲劇を減らすために、偏差値はある。
 「偏差値」が、教育を歪める悪の権化としての地位を確立したのは、1983年、当時の中曽根首相が「偏差値より人間性を!」と訴えて、「教育改革七つの構想」を発表したときと考えられる。中曽根首相が訴えたかったのは、ペーパーテスト偏重の教育からの脱却である。偏差値という、抽象的な概念をスケープゴートとして利用することで、スローガンは見事マスコミや国民の心を打った。戦後、高度化・大量化していく一方だった学習指導要領の方針を転換し、「ゆとり教育」がはじまったのは実はこのころからである。
 「偏差値」は本来、単なる統計学的な数値でしかないのに、まんまと悪の権化に祭り上げられてしまった。
 たとえば「日本の子どもの学力が下がっている!」というニュースのネタになることの多い、OECD経済協力開発機構)のPISA(学習到達度調査)で発表されているスコアは素点ではなく、平均点500・標準偏差100の偏差値そのものである一般的なIQテストのスコアも、平均点100・標準偏差15の偏差値そのものである。大規模で影響力のあるテストではむしろ素点は発表されず、偏差値そのものがスコアとして発表されるのだ。「偏差値は日本だけの文化」と言われることがあるが、それは明らかにデマである。
 そもそも受験競争意識を生み出すものは何か。構造的な原因として、教育の大衆化、平等化を挙げたい。日本の教育制度は単線型といわれる。みんなが同じレールの上を行くようなものだ。1970年代に日本の高校進学率は9割を超えた。みんなが高校に行くのが当たり前になった。多くの人に均等に教育の機会が与えられるようになった結果、「そのチャンスを活かせるかどうかは、本人の努力次第」という思想が広まった。より上の学校に行ける人は努力をしたからであって、下の学校に行く人は努力が足りなかったということになる。よって偏差値が1つでも上の学校に行った人間はそうでない人間よりも偉いという価値観が生まれた。
 偏差値の呪縛から子どもたちを解放するために必要なのは、偏差値の計算をやめることではなく、偏差値による志望校選びの無意味さを伝えることだろうと私は思う。偏差値だけに頼らずに、志望校を学校の個性で選ぶ文化の涵養が必要だ。そのためには日本の学校はもっと個性を出さなければいけないのだが、学習指導要領や検定教科書問題を通して見える現在の潮流は真逆である。
 
--------------------------------------------------------------------------
 
出た。中曽根さん。
売国奴として、たびた登場するよね。
 
偏差値が悪いって・・・
コンクリートが悪いって言っていたのに似てるな~
 
こんな言葉に操られてしまったことが悔しくてならない。