なぜ彼らの死は長年秘匿されたのか?

 「人の命1万円で買います」

 こんな見出しが新聞に登場したのは終戦の年(1945年)の冬だった。港が使えるようにならなければ復興は始まらないが「安全宣言」を出すまでに一体あとどれくらいかかるのか見当もつかず、休日返上でひたすら掃海作業を進めている最中のことだ。

 「試航船乗員募集」

 新聞記事はそう続く。「試航船」とは自ら危険海面を航海し、触雷することで機雷を処分しようというものであった。この特攻さながらの試みは「肉弾掃海」と呼ばれ、破格の待遇と別途危険手当1万円が付けられた。

 しかし、誰もが貧しかった時代とはいえ、いくら高額な手当が付いても、戦争が終わったというのに自ら機雷に当たりに行こうという者は民間にはいなかった。まして、民間船は戦時中に多くの犠牲者を出した経験もあり、労働組合が力をつけていたことから、結局、この危険な仕事を引き受けたのは旧海軍出身者たちだったのだ。

 一度は国に捧げた身、水漬く屍(みづくかばね=海行かばの一節)となる覚悟はあったものの、すでに世の中が手のひらを返したように平和を謳歌(おうか)し、御国のために死ぬなんてバカげているといった空気が生まれていたころである。誰もが躊躇(ちゅうちょ)しなかったと言えば嘘になるだろう。しかし、「やはり俺たちがやらねば」と立ち上がった人たちがいたのだ。

 当時の回顧録には「多くの戦友が眠る海に、もう一度行かねばならぬ」とある。日本の価値観はガラリと変わったが、実際に復興を助けたのはこうした自己犠牲の精神だったのだ。日本人はあたかも自然に国が立ち直ったかのように思っているようだが違うのだ。


わが国の独立についても同じことが言える。朝鮮戦争が勃発し、日本の掃海部隊は米国の命によりここでも掃海作業を行い、1人が殉職している。そのことがサンフランシスコ講和条約を有利に進めたと言われているのである。

 航路啓開(けいかい=水中の障害物を除き、船が航行できるようにすること)による殉職者77人にしても、戦争が終わり復員して親を喜ばせたばかりである。また、新婚の者もいた。彼らの死は長年秘匿されたが、当時の海上保安庁長官は事故が起こると現場に行き、隊員たちが人知れず散った海に花を投げ涙を流したのだという。

 その後、日本は平和を満喫し、一人前の国になった。しかし今、彼らのために誰が泣き、感謝をするのだろうか。戦後の日本はこうした真実から目を背けてきた。安保法制議論以前に知るべきは、「人任せで得られる平和はない」ということではないか。

 桜林美佐(さくらばやし・みさ) 1970年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。著書に「日本に自衛隊がいてよかった」(産経新聞出版)、「武器輸出だけでは防衛産業は守れない」(並木書房)など。

--------------------------------------------------------------------